離党を決める背景となった自分の活動経験

<付録>離党を決める背景となった自分の活動経験について

※この文章は、離党届と共に提出した、自分の主要な活動歴である。支部の仲間とは、こうしたことをいろいろ話す機会がほしかったが、かなわなかった。支部会議の場ではもちろん話す時間はないし、支部会議以外で仲間が集まることはない。しかし、離党するにあたり、自分を支えてきたものが何だったのか、自分を離党の決意に導いた自分の足跡を、不十分だがいくらかでも仲間に伝えたかった。

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 社会問題に私が目覚めたのは大学に入ってからである。それから50数年が経過した。この間、自分の生き方を方向付けた事件がいくつかあった。こうした経験が、今の自分に離党を決めさせた動機となっているのだろうと思うので、それを紹介したい。自分の人生の3分の2以上をかけた共産党をなぜ離党せざるを得ないと考えるに至ったのか、内心の告白に近い記述となってしまったが、支部の方々には自分の思いを伝えたい。

 

1.大学での統一戦線の経験

 私は1970年に早稲田大学文学部哲学科に入学した。1971年に発生した文学部構内での革マル派による川口君リンチ殺人事件に対して、自然発生的に発生した抗議行動と革マル派が牛耳っていた学生自治会民主化運動に、当時2年の自分も加わった。その後、2年間隠れ民青としてノンポリ中核派社青同解放派などなどの人たちと共に、革マル派自治会に代わる新たな自治会の確立を呼びかけ、文学部学生1400名の参加で大会を成功させ臨時執行部を確立した。自分も9人いた臨時執行部の中で唯一共産党系のメンバーとして活動した。その後、執行部のメンバーは革マルのテロに見舞われた。執行委員長、副執行委員長が重傷を負い、私は襲撃から逃れるため、執行部の角印を持って点々と引っ越しを重ねた。臨時執行部は崩壊することになる。

 運動を通じていろんな立場の人たちとの交流があり、考え方の多様性を経験した。そして我々執行部の行動原則は、「暴力は使わない」「徹底した議論を尽くし、一致して動く」だった。これはまさに民主集中制の原則だった。こうした革マル派との闘いという緊迫した条件の中では民主集中制は有効で、当時の執行委員長の判断は的確だった。有能なトップの下で民主集中制は機能した。しかし文学部自治会の民主化という当初掲げた我々の目標は、革マルの暴力に屈した結果、敗北に終わったのだった。

 

2.共産党による学者、理論家の排除

 大学に入りたての頃は、自己の内面をつきつめるヤスパースなどの実存主義に傾倒していたが、学生運動に接する中でマルクス主義弁証法唯物論を知るようになり、マルクスエンゲルスレーニンの著作を読み漁った。私が共産党に加入したのは73年、大学4年生の時だから、今年で入党51年目を迎えるのだ。入党動機はこの弁証法を政治的に適用しながら社会変革を目指しているのが共産党であるということを知ったからであったと思う。

 当時、哲学者で尊敬していたのが古在由重で、その温かで優しい語り口は、私のめざす人物像でもあった。その古在由重が、1984原水協運動が分裂した際に、共産党による原水協人事への介入とそれへの抗議の結果、共産党を除籍された。このことについて、当時、話には聞き疑問に思ったのだが、深く追及せずに来たことが今となっては悔やまれる。この事件は、共産党が学者の立場から理論的に批判や助言をして党を支えてくれる人を失うきっかけとなったのではないかと思っている。とりわけマルクス経済学の立場からの現代の諸課題の解明は、共産党は常に行われなければならないテーマだと思うのだが、東大経済学部ではマル経不要論がこれまで数度出てきているという。それだけマルクス経済学を深めようとする人材がいなくなっているということなのだ。こんなことを反映してか、近年、党中央から理論的な論文は発表されていない。志位委員長は戦前の活動家の英雄談を振り返るだけである。理論的な支えなしに進む共産党は、もはや科学的社会主義の党とは言えないところにまで来ているのではないだろうか。綱領が指し示す未来が官僚主義に陥らず、自由と民主主義が花開く社会であることを、政治・経済的な根拠を持って理論的に解明できなければ、綱領自体が夢物語である。

 

3.解雇撤回闘争での統一戦線

 私が国立の知的障碍者の指導員養成施設で2年間国費をいただいて学んだあと、障がい者指導のいわゆる「エリート」として地元の知的障碍者施設に迎えられたのは1976年であった。しかし登録されているのに実際は存在しない「幽霊」職員を配置し、国から措置される人件費を不当に懐に入れていた理事長を相手取り、労働組合を作ったことが「飼い犬に手をかまれた」と園長に言わしめ、それがきっかけで、1980年に私を含む労組役員3名が解雇された。園長による「飼い犬」発言は自分の誇りを傷つけた。二度と、資本の飼い犬と言われるようにはなるまいと心に誓った。3年間の解雇撤回闘争では、共産党を支持する労組だけでなく、地方労など社会党の方々からも支援をもらい、支援共闘会議が組織され広く統一戦線が作られた。3年間の闘いで解雇撤回闘争は完全勝利し、3人は職場復帰を勝ち取った。運動の広がりは一致点を大事にすることによって作り上げられた。他党派の方々との交流は、自分の考え方に幅と深さを与えてくれたのではないかと思っている。

 

4.労働組合での半日スト

 障碍者施設への職場復帰後しばらくして、医療生協の労働組合の幹部から、うちに来ないかとの声がかかり、1987年に医療生協法人に入職した。労働組合はユニオンショップ制である。当時、労組のトップは生協のトップと意思が通じており、自分を労組の役員にした後は生協の幹部職員へと登用する話が出来ていたらしい。自分は、病院庶務課に課長補佐で入った。その後まもなく労働組合の専従書記長に転出。その後執行委員長を務めた。その執行委員長時代に賃上げ要求に対するゼロ回答が続き、交渉が膠着した。当時の専務理事が組合敵視をはじめ労組の要求はほとんど受け入れられなくなった。自分は、労働組合の最後の手段であるストライキを構えた。ユニオンショップのストライキはあり得ないだろうと共産党からも圧力がかかったが、半日ストは決行された。この労働組合の歴史上初めてのストライキとなった。その結果その専務は、交渉が出来る専務と交代となった。

 ユニオンショップと言えども、労組と経営は裏で手を握ってはいけない。「飼い犬」にはならない決意が半日ストを成功させたと思っている。

 

5.共産党の大衆運動からの撤退

 ある時期から、共産党は大衆運動から手を引き始めた。地区党の中にあった労対部などの専門部会は招集されなくなり、いわゆる民主団体から党活動が切り離された。党の活動は拡大と選挙活動に絞られていった。自分は、共産党こそが大衆運動が抱えている諸課題についてもっと深く把握し、党の地域政策へとつなげていくべきだと考えていたので、この方針転換には大きな不信感を持った。思えば、原水協への党の介入問題と、それへの批判の高まりがそのきっかけになっていたのではないかと思うがよくわからない。

 地域の共産党組織が市民とつながることが出来るのは、大衆運動を通じてであろう。地域の市民団体の幹部は党員が多いのだから、そういう方々を集めて、今何が問題となっているのかを話してもらえば、地域政策などはすぐに出来上がるはずだ。ここの支部にも、市民団体の幹部が居並んでいる。こういう方々の経験、地域住民の声などは、共産党には不要なのだろうか。全国の党員の英知を運動に生かすことが出来れば、すばらしいエネルギーが発揮されると私は考える。これは大衆団体への介入とは違う。だが一方で、そのような機関にはないグループを作り話し合わせることは、分派の形成につながると考えているのかもしれない。今の党中央の一部が考えそうなことだ。

 

6.核燃・原発反対運動における共産党への不信

 2008年に地元の共産党県議が自分ともう一人の活動家を呼んで、核燃反対組織をこの地域に作りたいと相談を持ち掛けた。その結果、この地域に核燃反対組織が出来た。私は事務局長の任についた。しかしこの組織は、その目的に「核燃料サイクル施設の稼働に反対」と「危険な国の原子力政策の転換」を掲げ、いわゆる「脱原発運動」とは一線を画していた。「危険な国の原子力政策の転換」とは、“安全な原子力政策に転換せよ”という意味である。当初自分も、共産党が掲げていたトリウム炉だったら大丈夫、という主張を受け入れて運動を進めてきた。しかし、2011年の福島第一原発の大事故で、その認識は吹き飛んだ。自分は、もはや脱原発を明確に打ち出すべきと主張し、県内の脱原発組織に我々も参加しての共同行動を提案した。しかし当時の共同代表が私の主張を非難、折り合いがつかず、私はその年の総会で事務局長を退任した。退任の理由を私は明らかにしなかったので、不正が陰にあるのかと不審に思った方もいるという。私にとって、この悲惨な事故を目の前にして、県内の多くの原発に反対して運動をしている団体との共同行動をしない、という選択肢はあり得なかった。

 その後自分は、脱原発の県内グループのネットワークの結成に向けた活動に入った。しかしその後、共産党が突如「原発ゼロ政策」を打ち出した。脱原発とは言わないので、そのうちこの政策も変更になるかもしれない。しかしこれは、これまでの態度に対する総括抜きの方針転換だった。2013年の311集会には当該の核燃反対組織も参加したが、少なくとも代表レベルは、それまでの自らの言動に反した行動となったことは自覚しているはずである。世論の動向を見ながら、なし崩し的に方針を転換させて良しとする姿勢は、私の哲学とは全く相いれない。

 

7.自分の経験知見をもとに、もっと党に貢献したかった

 今、共産党員に与えられている任務は、赤旗と党員の拡大である。しかし、これまで書いてきたような様々な出来事の中で、この任務を遂行しようとは思わない。これが出来ないとなれば、あとはやれる仕事はほとんどないに等しい。毎月の会議に出たところで得るものは何もなく、時間の無駄に近い。しかし、自分は共産党に、違う形でいくらでも貢献できたはずなのだ。

 自分は、2000年前半にある方から薫陶を受けて以来、これまでの活動の中で、党外の方々と多彩なパイプを培い、運動の輪を広げてきた。自分が関わり、現在も活動に加わっている市民運動を以下に挙げる。

(※組織名省略)会長、事務局長、事務局長、事務局長、事務局長、事務局長、事務局長、事務局員、事務局員、世話人・事務局員、運営委員、会員・自然観察指導員、幹事、会員、会員、会員、会員、会員、会員、個人会員、個人会員、個人会員、原告訴訟人、原告訴訟人

 これまで自分は、このような多様な人間関係の中で、思想と発想の豊かさを担保し、物事を発想し、運動を提起し、社会を変革するために取り組んできた。とりわけ2015年に医療生協を完全退職してからは、毎日がこうした市民団体の仕事で明け暮れており、それは現在も続いている。

 しかし、この多様な人脈と、そこから得られた経験や知見は、確かに自分の財産だが、同時に共産党の財産でもあると思ってきた。党員各個人が自分なりに蓄積してきたものを活用できる、利用してくれる組織に共産党はなるべきである。

 党員は自分の力が党の政策や活動に反映されることに喜びを感じるのではないのか。しかし、現在の党はそのようにはなっていない。支部会議は、党員が自由に発言し意見交換できる場所であるが、そうした機会は、毎月1回1時間程度に過ぎない。貴重な時間を効率よく使えず、いつもイライラして申し訳なかった。支部会議に出席して良かったと思ったことが一度もなかったことは残念なことである。

 

8.自分の力を利用してくれる人が現れた。本当は共産党に貢献できればいいのだが

 自分の力を利用してくれている方がいる。立憲民主党の地域代表をし、衆議院選挙にも出たこともある方だ。その方とは、2021年10月の衆議院選挙からお付き合いが始まった。地域の市民連合が同年4月に発足し、最初に取り組んだ選挙がこれだった。自分はその方のパンフレットを作成するところから相談を受け手伝った。翌年2022年4月の市長選挙も、地域の市民連合は唯一の革新候補として、その方を推薦し取り組んだ。

 今、来たる衆議院選挙に備えて、この地域では立憲民主党が候補を擁立して選挙準備を進めている。自分にもその方から協力要請があり労をとっている。要請の中身は、候補予定者と友だちになってほしい、いろいろ気にかかることがあれば率直に話せるそういう関係になってほしい、何も分からないから色々教えてあげてほしいということだった。支持拡大の話ではないのだ。それで3度ほど候補者と会い、支援者らと共に懇親を深める機会もあった。自分は候補予定者に、私が事務局長をしている会が毎月発行している県議会の検証チラシを数年分と冊子発行していている冊子を渡して、県議会でどんなことが話されているか、地域の活動家がどんなことを考えているか、まず知ってほしいと言った(候補予定者は地域で生まれ、現在東京在住なのだ)。候補予定者には感謝された。妻は、自分の持っているあらゆる人脈を投入してその方を励ましている。

 誤解しないでほしいのだが、こうした協力は自分が立憲民主党を支持しているということでは全くない。政策的には共産党が断然優れていることは明らかだ。しかし政権交代という同じ目標がある時、協力を求められれば自分の持っている財産はいくらでも与える、というのが自分のスタンスだ。共産党県議の政策秘書をボランティアで手伝うことが出来ればいいのだがと思ったこともあったが、要請されなかった。今の政治情勢では、立憲の候補者をなんとしても当選させることがこの地区の重要な目標であることは疑いがないだろう。その候補者は若く、魅力的で有能な方だ。自民党への対立軸を鮮明にするために、多くの人たちによる党派を超えた協力が必要だ。自分の協力が運動の輪を広げていくものと確信している。(ここの地域は、小選挙区で毎回自民党議席を占めており、市民連合が候補の一本化を野党に求めている。)

 現在の党組織が、個々人のエネルギーを引き出せるような組織に転換することを心から期待したい。

以 上